幸福の木372諦念8タミ

翔目線

シャワーを終え、コーナーに備え付けられた冷蔵庫からビールを取り出していた。

翔さんっ。

タミさんだった。

客間を使わせていただいて、ありがとうございます。

構わないよ、お客さんなんだから当然でしょ?

わざわざ二階にしたのは智くんの部屋に行きやすいと考えたためだった。

ですがあのお疲れのところ申し訳ないんですが。

何?

ちょっとお話したい事があって。

どうも俺以外の人間には聞かれたくない事の様だった。

俺は少し考えて、自分の部屋の戸を上げると、どうぞと言ってタミさんを招きいれた。

一応綺麗にしてある。

俺はタミさんに椅子に座るように促した。

あの突然こんな話驚かれると思いますが。

どうぞ実は最近驚かされることばかりで少の事では驚きません。

あの。

はい。

私以前、こちらで働かせて頂いていたんです。

タミさんは真剣な様子でそう告白した。

俺は安心させたくてふっと笑って見せた。

知ってます。

智くんにはまだ話してませんが

和也から聞いているので大丈夫ですよ。

翔さんっ、あの。

タミさんの眸が期待に輝いていた。

まるで少女のような様子を見せる親切な女性に罪悪感が湧く。

もしかして記憶がっ、記憶が戻ったんじゃないですかっ?

タミさんはそう一気に言い切った。

すいません

あなたが、ここで働いていたって事は聞きましたが、思い出したわけではないんです。

そんなっ、そんなっそうなんですか?

深い失望の表情を見せると彼女はぽろぽろと涙を流していた。

これが本当の気持ちなんだろう。

周りのみんなが俺に期待していること。

だが、俺は何も思い出せない。

あんな辛い事実を突きつけられてさえ、俺の頭は使い物にならないでいた。

うっううっごめんなさい。

ごめんなさい。

そんな謝らないでください。

いいえ、いいえ。

何で辞めさせられたか、やっと分かりました。

あの時は不満もありましたけど、私が側にいると翔さんに負担を与えてしまうんですね?

負担?

だって思い出して欲しいって思ってしまいますもの。

自分だけは特別で思い出すだって期待してしまいます。

そう言ってさらにタミさんは泣き出した。

俺はそんな様子の彼女の背中をそっと撫でた。

俺に対する思い入れが大きかった彼女は謝りながら泪し、言葉を詰まらせながら話しだした。

忙しい母の代わりに、おもに俺の世話をしていたのがタミさんで、和也の世話をしていたのが佐和子さんだったそうだ。

智くんが家に来てからはそこまで明確ではなくなっていたそうだが、佐和子さんが和也とアメリカに行ってしまってからはこの家の家事を全て仕切っていたのは彼女だった。

何でだろう

不思議だ。

俺はタミさんの事を全く覚えていないというのに、この人の俺に向ける愛情といったものを信じることが出来た。

今では新しい人が執り行っているからやりにくいかもしれないが、俺と和也がお願いしたいのは智くんのお世話だと話すと意味を理解してくれた様だった。

なんだか嬉しいですわ。

ここで働く話を喜んでもらえて俺も嬉しいです。

いいえ、お願いされたからじゃなくって。

昔から、智さんは特別なんですね。

すみません。

こんな話。

いいえ、嬉しいですよ。

俺は何も覚えていませんから

智くんと俺って仲が良かったんですか?

仲が良かったなんてものじゃありませんよ。

双子かしらって思ったくらいです。

双子?

珍しい意見だ。

俺と智くんは似ていると思えない。

お二人とも、相手の事を考え過ぎて身動きできなくなるタイプでしたし

そうそう、智さんが困ってらっしゃると必ず助けに来られましたよ。

俺が?

ええ、何の前触れもなく芳野さんが家に来られた時も以心伝心っていうのかしら?

叔母さんが?

芳野さんは柚加さんと折り合いが悪く、智さんにまでキツく当たられてましたから、とても可哀想でした。

でも、旦那様と翔さんが守ってらっしゃいましたから、きっと心強かったでしょう。

キツく当たられていた

ギリッ

翔さん?

えっあっ。

信じられないくらい自分の手を握り込んでいて、爪で皮膚が切れそうだった。

ここの人は事情を知らないから貴方が来てくれたらこころ強いんです。

分かりましたが

実は私は叔父の手伝いをしていたんです。

引き続き誰か頼まないとあと。

何か?

でも。

タミさんは急に何かを思い出したらしく少し焦っていた。

遠慮しないで。

実は、ここを出る時に、二度とこちらのお宅には近寄らないっていう念書を書かされたんです。

えまさか田中さんにですか?

タミさんが頷く。

何だってわざわざそんな事

芳野さんも、田中さんも翔さんの事となると容赦ありませんでしたから徹底していたんです。

すみません、お世話になった方に不愉快だったでしょ?

いいえ。

さっきも言いましたけど、出て行って良かったんだと思います。

きっと翔さんの治療の邪魔になったんだと、今なら理解できます。

治療の邪魔?

本当にそうだろうか?

俺が一番ダメだったのは冷ややかに感じる使用人たちの態度だった。

そしてそれは今も苦手だ。

もしかしたら、タミさんから色んな事を聞いて記憶だって戻ったかもしれない。

念書まで書かせて遠ざけていた?

本当に俺のためだったんだろうか